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遊べなかった子供時代

人は生まれてから、周囲から24時間世話をされる乳児期、歩き始め言葉をしゃべり、遊んで一日の大半を過ごす幼児期、そしで幼稚園、小学校で集団に入り規律と課題のある生活を送り、中学、高校で思春期を迎えて、成長していきます。

この過程で大切なことは、いかに遊ぶかです。「遊んでばかりいないで、勉強しなさい」とはよく聞く親のセリフですが、それくらい子供は遊んでばかりです。次々に思い浮かぶ遊びは、尽きることがありません。

時間を気にせず、ただ思いつくままに動いて、全身全霊で遊びます。思い通りになる体、ならない体、思い通りになる玩具、ならない玩具、思い通りになる相手、ならない相手と、自分も含めて様々な対象との関わりを体験し、楽しんだり、喜んだり、失望したり、驚いたりとあらゆる感情を体験します。このような遊びを通して、人は成長するのです。

もし、この遊びを体験できなかったらどうでしょう?

家庭の事情によっては、幼い頃から大人の役割をせざるを得ない子供もいます。親が病気や不在、ネグレクトなど、様々な事情が存在しています。遊びもそこそこに、大人のような我慢や配慮をしたり、同胞や周囲に対して大人のような役割をする子供は、結構多いのです。このような子供は、周囲から賞賛されることもあります。

しかし、この子供たちが大人になった時、空虚感や生き辛い感覚に苦しむことがあります。遊べなかったこと、子供でいられなかったことで、失ったものがあるのです。

遊びを通して、安心して世界を体験し、周囲と関わる感覚を覚え、世界は白か黒かの二色ではなく、その間の色の方が多いことを体験します。遊びには勉強した知識では得られない、この世を生きる感覚が詰まっています。そこで私達は、欲求のままに集中することの醍醐味と、ほどほどにやり過ごす寛容さを身に着けるのです。

この貴重な体験ができないまま成長すると、世間的な規範以外に、自分を動かす基準が見つからなくなります。自分の空虚さに悩み、生き辛くなってきます。

遊びは誰でも無意識にするものなので、評価される対象ではありません。けれども、大人になり社会で生きて行くための、大切な芽を育てるのが遊びなのです。

 

遊べなかった不幸を抱えていたら、子供時代の自分をやさしく認めて励ましてやりましょう。周囲のことに追われて、遊ぶことができないまま、自分の欲求を見失ってしまったのです。見失った欲求を探すために、まず今やりたいことを見つけることから始めましょう。