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主役は一人

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、権力の中心の座を巡って次々と争い戦う、勝ち残りゲームのようなことが繰り返されます。例えば、平氏打倒で結びついていた源氏の集団も、目的を達成した途端、今度は源氏の中で新たな権力闘争が始まるのです。

世の無常を嘆きたくなりますが、これは、人間の集団にとって、主役は一人で良く、複数ではうまく行かないということの表れとも言えます。

ところで、他者を滅ぼしてでも主役になろうとするこの激しい情熱は、どこから湧いてくるのでしょう。

私は、生まれ落ちて母親や周囲から、一挙手一投足を見守られ愛された、まさに主役の中の主役の体験が根底にあると思います。これに続いて、弟や妹が生まれた途端、主役が交代したという無念の体験も持つ人も多いでしょう。

もしこの主役体験がなく、ただミルクを与えられるだけの乳幼児期なら、私達は自分が何者か分からず、果てしのない宇宙を漂っているような不安を持つことでしょう。このように、最初の主役体験は生涯に渡って自分を支え、機会があると集団の中心になりたいという欲求にもつながります。

しかし、母親や父親など、保護者と言われる人がいても、主役になれない場合もあります。親の事情で育児ができなかったり、親が精神的に未熟な子供の状態で、自分達が主役でいたい場合などです(親も、十分主役体験ができなかった可能性があります)。

子供は親の愛を得るにはどうしたら良いか考え、親を喜ばせたり、役に立とうとします。これはあくまで親の愛を得て主役になるためなのですが、親は一時的に喜んでも主役を譲らず、愛を得ることができません。

こうして主役体験ができないと、自分を肯定することができないため、周囲に合わせることが多く、自分が何をしたいか分からなくなります。いつも主役は他者で、自分ではないという、辛い人生です。

 

主役を自分に取り戻すためには、他者を滅ぼすのではなく、自分を受け容れてくれる信頼できる他者を探し続けること、ここから自分の人生が始まります。