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縄文と弥生

縄文時代と弥生時代、この二つの時代の名前は土器の名称に由来しています。その後の時代は、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代など、象徴的な建造物や首都の場所などが時代を表すようになってきます。

土器の名称が時代を表すとは、古代の人びとの生きた軌跡や創造性がしのばれて、なかなか味のある命名と思われます。その中でも、縄文は、土器に施した文様の名前、弥生は、土器が発見された場所の名前です。縄文の方が、より土器そのものを表現していると言えます。

1万年以上続いた縄文時代、土器の文様も、時代や場所によって変遷がありました。しかし、ほぼ変わらないのは、土器に何らかの文様や装飾を施すという作業です。

もともと、煮炊きの目的で作られた縄文土器ですが、基本形の上に、必ず何らかの文様や装飾が施されました。縄目を転がして文様をつける縄文の種類だけでも百種類以上あると言われています。

縄文時代中期(5,500~4,500年前)になると、有名な火焔土器も登場します。火焔土器の燃え上がるような存在感は、実用をはるかに超えて表現が目的と言わざるを得ません。

縄文人の生活は、狩猟、採集、栽培が主で、基本的には定住生活をしながら、自然環境が変わると移動したりしていたようです。大いなる自然に身を委ねながら、その中で日々湧き起こる感情を土器に表現したのかもしれません。土器は単なる生活の道具ではなく、自分自身を投影する作品でもあったと思われます。

弥生時代になると、大陸由来の水稲耕作が西から東へ広まっていきました。もはや自然に身を委ねるのではなく、自然をコントロールして、安定した稲作を目指す社会へと変化していったのです。集団をまとめて主導するリーダーが出現し、社会の中での個人の役割も決まっていきました。

弥生土器も、社会の在り方に添って、装飾の乏しい、機能的・実用的なものへとなりました。それでも、弥生時代中期ともなると、それぞれの個性や美意識を盛り込んだ土器が作られるようになります。ただ、火焔土器のような、実用性を度外視したような土器は作られませんでした。

古代の遺物は私達に、多くのことを伝えてくれます。その中でも土器は、作り手の手の形から人となり、感情、考え方、社会の在り方まで、感じさせ想像させてくれます。厳しい環境や生活の中でも、懸命に生きて表現し続けた人々は、表現することで自分を発見したり、気持ちを高めたり癒されたりしたことでしょう。それは、今も変わらない、表現の持つ作用です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

な土器は作られませんでした。

 

古代の遺物は私達に、多くのことを伝えてくれます。その中でも土器は、作り手の手の形から人となり、感情、考え方、社会の在り方まで、感じさせ想像させてくれます。厳しい環境や生活の中でも、懸命に生きて表現し続けた人々は、表現することで自分を発見したり、気持ちを高めたり癒されたりしたことでしょう。それは、今も変わらない、表現の持つ作用です。