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アウシュヴィッツは終わらない

 

 この「アウシュヴィッツは終わらない」という表題は、アウシュヴィッツに収容されていたプリーモ・レーヴィ氏が書いた「これが人間か」という本の副題をお借りしたものです。

 

この夏、私はポーランドのアウシュヴィッツ博物館を訪れました。アウシュヴィッツはドイツ人がつけた地名で、ポーランド語ではオシフィエンチムと言います。第二次世界大戦時、この場所で約150万人のユダヤ人を主とする人々がドイツ軍により殺害されました。アウシュヴィッツ収容所は、大量殺人工場だったのです。

 

人を殺害対象としか捉えないというのは、相手を人の属性を廃して、ものとして捉えていることになります。そこには、人間同士を結び付ける共感は全く働いていません。ドイツ軍はユダヤ人達の所持品、財産をすべて奪っただけでなく、髪を切り金歯を外して奪うという徹底した収奪を行ったのです。

 

アウシュヴィッツ第一収容所は整然とレンガ造りの建物が立ち並び、道には樹木が木陰を作り、一見静かな街並みのように見えます。建物の中には、悲惨な歴史の展示の数々が並んでいるのですが。

 

ビルケナウ(アウシュヴィッツ第二収容所)になると、事情が一転します。有名な「死の門」をくぐった列車の引き込み線、そこで降ろされた人々が収容されたのは、馬小屋をそのまま運んで建てたようなバラックです。冬は零下20℃にもなる場所に、そのようなバラックが300棟も並んでいたと言います。

 

私が別の意味でとても驚いたのは、収容所の所長ルドルフ・ヘスの邸宅が第一収容所の敷地の中にあったことでした。立派なその邸宅と庭は、今でも残っています。庭ではヘスの子供達が遊んでいたそうです。平和な家族の暮らしと、人を殺し絶滅させるという仕事が同じ敷地内で成り立っていたということに、どうやって整合性を持たせたらいいのでしょう。

 

このように、アウシュヴィッツは日常の物差しでは捉えることができない場所です。私たちの人生の根幹とすべきヒューマニズム、思いやり、共生の考え方などが全く通用しません。古今東西の様々な宗教でも捉えきれないものでしょう。

 

アウシュヴィッツを少しでも捉えるには、既成の考え方でなく私たちの内面に入って行くことが必要かも知れません。日頃省みることの少ない私たちの内面世界、それは暗い森のように少しずつ入って探っていかないと分からない世界です。探って行くと、かつて経験した大きな傷があったり、怒りや寂しさが眠っていたりします。そこで、強い孤独感や人間不信を味わったかも知れません。その結果、人間同士のつながりを失い、人も自分も、もののようになったと感じたかもしれません。人がもののように感じられるのは、アウシュヴィッツにも通じる心の在り方ですが、生きて行く中で体験することも多いものです。

 

アウシュヴィッツは特異な出来事としてしまうと、そこで終わってしまいます。私たちの内面世界を探りながら、共に考え続けていくことで、「アウシュヴィッツは終わらない」で行くのではないでしょうか。